「好み」とは何か
「好み」とは何か
(2022年3月28日に書いた下書きに、6月12日に少々加筆修正して公開させていただく。)
人の好みにずっと関心を持ってきた。
どんな人が、どんな物を好み嫌い、どんなことを好み嫌い、どんな人を好み嫌うのか。
「あれみんな好きだよね」の"みんな"とは誰なのか。その"あれ"はどのようなものなのか。
個人差は、種々の好みの軸は当然としてそれ以前に、好き嫌いを持つか、持たないかにも表れる。
例えば「好みの歯磨き粉があるか」どうかは、人による。(私はOra2しか勝たんと思っているが、なんでも良いと思っている人も多い。)
さて。
「好み」について考えるにあたって、私が考えてきた主に以下3つの点について話していきたい。
①人の属性による類型化
②一般的好みと個別的好みの区別
③「好む」のは相性か才能か
①人の属性による類型化
特に①については長年考えてきたし、誰もが幼少期から考えていることだと思う。
私の場合、どんな属性の人がどんな価値を重んじているか(言わば「好みの判断軸」)にずっと興味を持ってきた。
中学生の頃には、
この女子中学生は『いかに女友達グループのなかでの流行を押さえているか』を最高の価値として生きているなぁと思ったり。
このオタクは『いかに趣味を愛せるか』で友達を決めてそうだなぁとか。
高校生の頃には、
このお調子者男子は『いかに面白いか』で生きてそう、とか。
この田舎のおじさんは『いかに朗らかか』かで良い青年かどうかを見てたり。
大学に入ると、
このエリートの子は『いかに自分に刺激をもたらすか』だなぁとか、
このギャルは『いかに芯があって頼りがいがあるか』を尊敬できるかの最重要事項にしてるなぁとか、
この地雷系女子は『いかにルックスが良いか』で好きな人を判断してるなぁとか。
まぁ考えたくなくても考えちゃうよね。
変な話、私はじゃんけんの勝率が高い。
じゃんけんという超有名ゲームは、グー・チョキ・パーの3択のコマンドを選択するシンプルなゲームだ。
そしてその選択には、必ず理由がある。
必ず何かしらの「好み」を持って、「好きな手」を誰しも持っていて、その判断基準は他の物事人についての判断基準と当然に類似している。
そのため、相手の普段の好みを考慮し、それと好きな手との関係性の18年間のデータをもとに、出してきそうな手を予測することは可能だというのが私の考えだ。
(その予測結果は、確信であることはほぼない。60%チョキを出してきそうだけど、28%でグーかもしれないな、といったざっくりの予測結果のときが当然多い。そうしたら60%で勝ち、28%であいこになれるグーを出していく。)
例示はこれくらいにしておくが、人には必ずそれぞれ「好み」があり、そこにある程度のパターンがあるという考えを私は持っている。それが①人の属性による類型化の話である。
(なお私の伝えたいメッセージではないことだが、ここで過度なパターン化の濫用の問題はどうせ付記すべきだろう。先入観・偏見として相手に悟られてしまうような類型化の活用は時に悪である。)
私の思う良い活用は、相手の好みをまず大まかに感じ取り、外さない言動を取るヒントとしての活用、だろうか。そして決してパターン化されない相手の深みを理解する礎とするのだ。
②一般的好みと個別的好みの区別
人の好みには、一般的なものと個別的なものがあり、そこは切り分けて考えるべきだと近年私は思っている。
一般的好みとは、「まぁみんな好きだよね」というものである。
例えば、冬に入る温かいお風呂。まぁみんな好きでしょう。他にも、思いやりのある人。そんなんみんな好きでしょ。
だいたいの人が共通して持っている好み、一般的好みは確実に存在している。
一方で個別的好みとは、「好まない人もいるけど、わたしは好きよ」というものである。
例えば、ビール。苦くて嫌いという人もいるけど、わたしは好きよ。他にも、サッカー。疲れるし難しいから嫌いという人もいるけど、わたしは楽しくて好きよ。
一般的好みでは決してない、個別的好みというものが「好み」の大多数であり、そこに個人差というものが表れる。
「好み」と言ったときには、後者の個別的好みが取り沙汰されることが多い。個人差について言及する機会が多いためだ。
一方で、自分磨きをするといったときには、どのような姿を目指すかと言えば、人々の一般的好みに迎合することを意味するように思う。
このように、私達は「好み」を捉えるとき、場面によって一般的好みである場合と個別的好みである場合があるのだが、基本的にその区別には無自覚であると思うのだ。
「恋愛的に好かれる」ことを例に出そう。
先日友達に「どうしたら彼女ができる(大意)?」と聞かれた。そのときに私が話したことは、一般的好みと個別的好みの区別そのものであった。
まず、清潔感がある・おしゃれ・話が面白い・気遣いができる、とかの普通に押さえるべきことはやっておく。
そのうえで、目の前の人に向き合い続けて、どんな人でどういう価値観で生きてるのかを理解して、合うのを確認し、(あるいは多少合わなくても好きなら合わせていいだろうし、)と、その人個人に向き合う段階に移っていきたいよね。
と話した。
一般的好みを押さえ、そして個別的好みのすり合わせ、という2段階構造で考える。
③「好む」のは相性か才能か
好むのは、ある種才能だなと最近考える。
好みというのはちょっとしたこだわりだと言える。ちょっとしたこだわりを持つというのは、その物事人に向き合って自分の気持ちと照らし合わせたうえでできることではないかと思う。外界のものを自分のなかにちゃんと取り込むという、人によっては面倒くさい行為を必要とする場面が多いのだ。
それをできるかどうかという一種の才能が絡んでくる。こだわりは持とうと思って持てるものではない。
おわりに
今まで書きがちだった、文章の最後のまとめメッセージ。今回は書かないでおくよ。
この文章から何を感じ取るかも、皆の「好み」でしょ?
(終)